大学案内
沿革
大正5年5月 日本医学専門学校の学生約450名が同盟退学し、新校設立運動を開始
大正5年9月 東京物理学校内に、東京医学講習所を開設
大正7年4月 東京医学専門学校設立認可(理事長・高橋琢也 校長・佐藤達次郎)
昭和6年5月 附属淀橋診療所(後に博済病院を統合し、淀橋病院と改称)を開設
昭和21年5月 東京医科大学設立が認可され、附属淀橋病院を東京医科大学病院と改称
昭和24年3月 旧制大学学部開設が認可
昭和24年9月 茨城県稲敷郡阿見町に東京医科大学霞ヶ浦病院を開設
昭和30年1月 学制改革による6年制医科大学の設置が認可
昭和32年3月 大学院の設置が認可
昭和39年4月 東京医科大学附属高等看護学校の設立が認可
昭和50年4月 東京医科大学附属霞ヶ浦高等看護学校の設立が認可
昭和51年4月 6年制一貫教育を実施
昭和53年4月 附属高等看護学校を東京医科大学看護専門学校に、附属霞ヶ浦高等看護学校を東京医科大学霞ヶ浦看護専門学校に改称
昭和55年4月 八王子市館町に東京医科大学八王子医療センターを開設
昭和61年4月 東京医科大学新病院竣工
平成10年4月 東京医科大学の英語名変更
学祖高橋琢也先生寿像
<源流>
東京医科大学の源流は、明治9年(1876年)に設立された済生学舎に遡る。済生学舎は日本最古の私立医学校として開校され、野口英世や吉岡弥生など優れた医者を輩出している。その後、済生学舎は日本医学校、日本医学専門学校(現日本医科大学)へと変遷していった。
明治45年(1912年)に設立認可を得た日本医学専門学校は、卒業と同時に無試験開業資格が得られる文部省指定校になることを約束して学生を募集し入学させた。しかしながら、第1回生が卒業する時期になっても指定校に適合する設備等を整えることが出来なかったために、450余名の学生は、血判連署の上、学校側に改革意見を提出し、指定校獲得の運動を行った。それにもかかわらず、所期の目的が達成されず、そればかりか学校側は36名の停退学者を発表した。
<東京医学講習所の開設>
学生450余名は、大正5年(1916年)5月16日、日本医学専門学校からの総退学を決行し、「正義」「友愛」「奉仕」を旗印に新校設立の運動を開始した。
同年9月11日、東京物理学校(現東京理科大学)の校舎を借りて東京医学講習所が開設された。臨床教育は順天堂医院と回生病院で行われた。
<東京医学専門学校設立から大学昇格へ>
大正7年(1918年)4月11日に東京医学専門学校(東京医専)が設立された。その設立に当たっては、沖縄県知事、貴族院議員を務めた学祖 高橋琢也氏の献身的な努力と人脈によるものであった。氏は、設立資金として全私財を投じた他、全国を奔走し、当時錚々たる政財界等の地位にあった多くの人たちに協力を求めた。
その結果、佐藤 進、石黒忠悳、森 鴎外、中濱東一郎(ジョン万次郎の長男)、原 敬、犬養 毅、高橋是清、大隈重信、岩崎弥太郎氏などの方々から物心両面の協力が得られた。
大正9年(1920年)4月13日に念願の無試験開業の文部省指定校を獲得した。昭和21年(1946年)東京医科大学に昇格し、昭和27年(1952年)学制改革による新制の東京医科大学となり現在に至っている。
創立以来、「自主自学」を建学の精神とし「正義」「友愛」「奉仕」を校是に優れた医師の育成に努め、幾多の困難を乗り越えながら、我が国の医学、医療に大きな貢献を果たしている。
(出典;東京医科大学HPより)
東京医科大学HP